昭和39年12月15日 朝の御理解
昨日あの、桜井先生の事で親教会に参りました。親先生にご相談を申し上げねばならないことがあったからです。で参りましてから色々とお話をさせて頂いております内に、あの、例えば、教師が信者を自分の思うようにしようと思うこと、いわば、師匠が弟子を自分の思うように育てようと思うこと、成程思うようにっ育てくれたり思うように言うことを聞いてくれればそれでいいのですけれども。
そうでないと、あの信者はあの弟子は自分の言うことを聞かんというて、不愉快な思いをしなくければならんのですから、どうでも一つこの、その信者なり又は弟子なりが師匠の、または、先生の思い以上に動いてくれるような、また、信心に育ってくれるようなおかげを頂く為にどうでも一つ親の思い、師匠の思いというものを、捨てて、神様にすがり、神様にお任せするようにならなければ。
本当のおかげは頂かれないのじゃないでしょうかといってから話したんですね。ところがね、やっぱりその、自分の思うようにしたい、ああすれば、こうすればおかげを頂くと思っておるから、こう出てくればいいのにとこう思う。それがやはり、教師として師匠として我情じゃないだろうかと。まあ、そんなことを昨日はゆっくりと話しあったのです。私は思うです。
本当に自分の思い以上のおかげをです、信者が、また、その弟子が頂いてくれるためにはやはり、その師匠が、その思いをすてなければいけないと。自分の思うように動いてくれる、信者。素直に先生の言うことをよく聞く、はいはいというて自分の云うように動いてくれる。また、そういう信者がよい信者。だからもう初めから、自分のその、言い分とか、言うこと聞かせようとかいう思いを捨てたら。
今度は自分の思い以上にその信者が動いてくれる。私これでなければ人間の思うようになるおかげと、神様が思いようにして下さるおかげとの大変な開きがでてくると思うのです。同時に私はこれは自分の我情と自分の思いというものを、捨てるというけいこの上に本当にありがたいことだと、なかなか、自分の思うようになる物じゃありません。ただ、自分の言うておることだけははいはいと素直に聞いてもです。
言うていない以外のことは例えば、神様の心にかなわないような事になったんではいけませんですからね。やはり、私共は例えば、私が皆さんなら皆さんに思いをかけておると。だから私の思い通りに皆さんが動きなさなければおかげは受けられんというのではなくて、私がその思いを捨てて皆さんが私の思い以上に例えば信心が育って行って下る。椛目の場合はみんなそうです。
だから、思いがけない人が思いがけない信心に進んでいかれ、思いがけないおかげを受けておられるように思うのです。ね、今日は自分の思いを例えば、自分の思いを捨てて、自分の家内に、または、自分の主人に、子供にだれかれの上にです、あげんしてくれればいいけれども、あぁあってくれればよいけれども、成るほど、そうしたらおかげが受けられると分かっておってもです、その思いというものを捨てるという事が。
しかしもっと神様をお働き頂ける場というものを造るようなものですから、自分の我情を捨てるという事、主人があああってくれればいいけれど、家内がこうしてくれるといいのだけれども、というその思いを捨てる、思いを捨てておる所に自分の思うておる意外のことに働きかけてくれる。または、思い以上の働きをしてくれる。そこに、本当に家内に対して主人に対してですたい。
例えば子供に対してですたい、有難いという感謝の念もいよいよ強くなってくるわけなんです。あああってくれればいいのに、こうあってくれればいいのに、というような修行生の方が努めておってもまだ足りん、足りんといつもやはりそこには家内に対する不足、主人に対するところの不足、これは家内や主人だけのことじゃありませんよね。誰彼のうえにそうなんです。だ
から、この、思いを捨てるということにね、今日は一つの焦点を置きたいと思う。もう一つ本気でここん所に思いを置かなければいけません。そこに、思う以上に例えば信者が育つだろう。思い以上に家内が主人が思い以上に、自分のためにおかげを、ありがたいという風に変わってきてくれるだろう。そいう体験をいたしますとですたい、自分の思いを捨てるという事がありがたいことだということになるです。
いわゆる我情我欲、我情我欲とこう仰るのですけれども、まあその我情をすてる稽古に専念する今日一日でありたいと思う。私は日々あのここに焦点を置いてからそこん所へ焦点をおいて一日過ごさせて頂くという事、もう本当に昨日の御理解ではないですけれども、神の一言はとこういうとこね。大変な体験を頂くもんですよね。夕べのご祈念にでした、久富繁雄さん所の長男の国雄さんがお参りをしてお届けするんです。
昨日はなんか、あのへごを割るですかね、あの竹を割る一日、あの親子で御用を頂いたとこういう。野菜のなんか、手にある奴でしょう。それを見ながら家内じゃない、母をみよったら、土居の村で内の母ぐらい働く、内の母ぐらい、おとなしい母親はまたとあるまいとこう思ったっち。目の前で、仕事をしている母親をみてから。この母親のために、私は働かんといかん。
この母の為に、喜んで頂ける私にならないかんと思ったら、もうへご割りながら、おかしいごと感激させて頂いたと、こういう訳なんです、それをここで、堤さんところの清さんが頂いてからですね、そのお届けが終わって、「あの、もう国雄さん、今のお届け聞きよったら私の方が感激した」というわけです。「先生、今んとはほんなこつですばい」とまた云われるですもんね。
本当に親に孝行しよう喜んでもらおう、と思っただけで確かに感激いたします。昨日、永瀬さん所の奥さんが夜の御祈念に毎晩参ってみえるんですが、お夢を頂いておられる。そのお夢の中にです、月のうちに二日、一日は自分の里の御霊様、両親を始め先祖の御霊様、一日が永瀬の家の両親の御霊を始め、先祖の御霊、一日、月の内に一日です、先祖の為に思いを凝らせと頂いておられるですね。思いを凝らせ思いを表せと。
それだけで、例えばそう思われる永瀬さんの奥さんは必ず喜びの一日が約束されるだろうと私は思うのですね。今日という今日は永瀬の家の先祖の為に一生懸命思いを凝らす。ご仏壇の言わばお掃除もするだろう。お父さんやらお母さんの好きであった物のひとつもお供えさせて頂くだろう。お花の水も変えるだろう、お花もかえるだろう、なんかしらん一日その事を、思いつづける一日で。
あれと月の内二日そういう風なお夢を頂いておられるですね。神様が喜んで下さる、御霊様が喜んで下さるような事を思いつづけるという事だけ、そこに、そして、神さまの願いというものは、そういう思い方をさせて、いわば、思いもかけないおかげを下さろうとしておる働きかけだと私は思うのですね。ただ先祖だけが喜ぶというだけではないと思う。なら、今日のことはなんかですね親のことを思いつづけると。
この親の為に、親孝行をせんならんと思っただけでも、感激したというようにです、今日私が申します事は、天地の親神様が、氏子に願うておられる、一番最大の願いだとこう思うのです。氏子が我情を捨てるという事は、自分の思いを捨てるという事は。それも、それ自分自身が、あ、ありたい、こうありたいと、いった思いもさることながらです、まず、人に対してです。
息子がこげんあってくれたらよいのだけれども、家内が主人がこうあってくれたらよいのだけれどもと、こうお互いにそのそういう思いを捨てるということ。ね、例えば、ご信者の一人一人にです、思いはかけられていないはずはないのだけれども、自分の思いはしれたもの。自分の言う事を聞かせようというのではなくてです、自分の思い以上に信者、嫁さんに信心が育ってもらえる。
思い以上に動いて下さるようなお蔭を頂く為には、自分の思いを捨てなければいけないと、自分の思いをすてるということはこんなに有り難いことだと。いう体験をです頂かせて頂いたら、そういう思いを一生懸命思いつづけたら、神様が喜んで下さると私は思うです。わが身は神徳の中に生かされてある、体験を受けることができると私は思うです。ね、思う事はいらんなあ、と、思い以上に動いてくれ、働いてくれるという事になってくるお陰を頂くと思うです。ね、
自分の例えば弟子を、いくら弟子だからといって自分の思うようにしようと、ところが思うようにならない。だからその弟子は、もう俺の言う事を聞かないから波紋にでもせんならんということにすら、進展してくるのですからね。そこに、おかげの受けられない双方とも難儀な事になってくるんです。ところが、思いを捨てておればです、例えば、ちょっとしたことでも思い以上のことができるから、ありがたいなあとこう思う。
有り難いなあと思うから、次はもっとありがたい、ことに動いてくれるようになってくるんです。そういう体験を今日は一つ頂いてほしい。今日は自分の思いを特に人に対しての思いを捨てる。そこに焦点を置いて今日お蔭を頂かれたらどうでしょう、私もそこにいよいよ私共でもないようであります。そんな事ではおかげが受けられるかとこう思うような事があります。けれども、そういう時には自分が育てた、育てるというて育てはしきるようにですね、
その思いをすてることに一生懸命務めます。そすと、次の思い以上の働き、思い以上の動きになってくるから不思議です。そこを神様が十二分に働いて下さるんだというものがあるですね。どうでも一つ、我情を捨てると、我情を自分の心のなかから、取り除かせていただく。ために、「欲しいと思わぬ雨だれの音を聞く」と、ああしてほしいこうしてほしいという思いを捨てる一日、そこに焦点を置いてお蔭を頂いきたいと思う。